紙漉重宝記
紙漉重宝記の歴史
寛政10年(1798年)4月創刊
編者・作者 国東治兵衛(くにさきじへい)
出身・石見国(島根県益田市)遠田の紙問屋
治兵衛、創刊の思いは「半紙漉のあらましを記して業者の枝折にしたい。また紙を商う人たちが、紙のことを知らぬのはなげかわしく思う。そこで自分は家童に教えんとして、その始終を画にあらわしこの一書をつくった」と述べている。
紙をつくる技が、わが国に伝えられて以来1300余年の間に、産地は全国に広まっていったが、その多くは農間産業の形態のもとに、細々と漉き続けられていたのである。
しかしその技術は、一家相伝の秘法として、よそに洩らさないのが掟とされていた。従って他の良さをとって自らの品質を改める向上性は、なかったものの、慣れにより技(わざ)が磨かれて、独自の優秀な紙を漉く機運が生まれて、現在、全国で特徴的な手漉き紙の産地を形成している事実と重なる。
紙漉重宝記と石州半紙・石州和紙
「紙漉重宝記」によると慶雲・和銅の頃(704年~715年)石見の国の守護、柿本人麻呂が民に紙漉きを教えたと記されており、この記述により、1300余年の間、石見国(島根県石見地方)で手漉きの紙が、漉き続けられ、技術の伝承が行われ、現在に至る歴史的根拠となっています。